盆上の美学(美しい盆栽は)
美しん盆栽は4
この稿を書いていて思うことです。
何を求め、何を定義づけようとしているのかと、錯覚に陥ることがあります。
勿論、一鉢の中に生き続ける「盆栽」と言われているもののことなのですが、、それは”人生の美学”にも、文学とか宗教にさえもいえることなのではないだろうか、と云う思いから、万物に共通する「美しさ」とは何なのだろうかと、思い巡らすことが多くなりました。
そして、時折は、どうにも出来ない、どうすることも叶わない呪縛(呪いをかけて動けないようにすること)の中に居る「人間」、それも小さなアリやハエと同列の人間としか思えなくなることがあって、息苦しいほどの恐怖と悔恨を、何ものかに対して感ずることさえもあるのです。
美しいものへの憧れと戦慄(おそれおののくこと)の、振幅の度合いは更に深まって行くようです。
美しい盆栽の話を進めましょう。
●必然性をもつ
自然の秩序の原則に忠実なものは美しい、と云うことです。
あるべき処に枝があり、咲くべき季節に咲く花が美しいと云うことは、誰でも知っていることで、樹木の反対の方に枝がないから淋しい、と云って枝を不自然に曲げてもって行ったり、懐枝(幹や枝の曲がっている内懐に出る枝)を強くしたり、無理な温め方をして、早く咲かせて、イビツな形の花を咲かせるとか、這う性質の草木を、針金で直立させたり、ザクロで松のような直幹を作ったりすることは珍しくはあっても、美しくはないようです。
たとえ他人には知られなくとも、作る本人はゴマカシを忘れることは出来ません。
無理に曲げなくても、木を人が助けて育ててやれば、ほしい処に芽を吹き、又吹かなくても、木は自分の知恵で空いた空間に枝を伸ばし、独自の抑揚を持ったリズム(調子)をみなぎらせて自然に美しい木となってきます。
日本人は、どうもセッカチのようです。中国人や英国人のように、耐えて待つ、ということが、美しい草木を作る時には、大切のようです。
私も、性急に曲げたり切ったり、色色なことをしてきましたが、先人の教えと、自然の教えが、やっとわかって来たようです。
「無技巧の技巧」と云うことでしょう。
奇形に走り、この必然性を無視する、盆栽作りの傾向が、一般の自然を愛する人々から「不自然な趣味」「木をイジメルから厭い」とか云われ、また、何でも「古くさえあれば良い」と云うような錯覚や宣伝から「老人の遊び」とか「成金趣味」とか云われて根強い反感を買って居るのは、当然のことながら残念なことで、改めなければならないことです。
どんな若木でも、自然らしい美しさを持つものは立派な盆栽です。
●格調の高さ
格調の高い、と云うことは、木の若いとか古いとか直接関係はありません。
人間と一緒で、若い人でも非常に格調のある尊敬出来る人もあれば、老人だからと云って、風格があり尊敬出来る格調ある人ばかりとは言えません。
ただし人でも樹木でも、年輪を重ね、苦悩や風雪に耐えて来た、悲愴美のようなものがあります。
そして正しく生きてきた老人老樹は厳然として、見事な個性を自己主張しています。
この針ほどの妥協性もない、きびしい美しさが高められると、若い者では及び難い品格と独特の調子(リズム)を表現します。
大自然から受ける感銘と同じような感動を「及び難きものが及んだ姿」の盆栽からは受けます。
●リズムと調和
笛の調べも序破急があるように、文章にも起承転結あるように、盆栽にも点と線と比重と「ま」が、それぞれに美しく、また合い照らしあって醸し出す美しさには、一木一草が幹の曲線、枝の打ち方や、梢の姿に独自のリズムと調和を持ち、鉢の型や色、置かれた場所、観る者の心の在りかた、などの外的調和に依って、一層の美しさを増すようです。
人によって助けられ、美しさを発揮してきた盆栽には、助けた人の個性が明らかに現れます。一本の枝、一枚の葉の、有るか無いかによって、ぜんぜんと言って良い程、その草木の感じは変わるもので、そこに作る楽しみもあれば、自分に対する恐ろしさもあります。
盆栽は心を写す鏡でもあるわけで、作る人の自己表現の場であり、芸術であるわけです。
●八方から美しく
昔の盆栽は床の間に飾られることが多く、表だけを重要視しました。
従って表さえ美しければ、と云う考えもあったわけです。
しかし私は立体美術としての盆栽を考え、飾られる窓辺、玄関、事務机、食卓、応接机、ベランダ、と現代の生活様式を考えて見ても、八方から見て、素直に美しい盆栽を作ることが、先ず大切な事だと思います。
そして八方から見て美しい盆栽、を作ろうと思えば、不自然な曲げ方やきり方は、出来ないものです。 自然に独立して野山に在る木を見ると、観る場所によって形の違いはあるが、どこから見ても、それぞれの巧まない美しさがあります。
ただし一番美しく見える方向はあるものですが、どこから見ても、不自然な幹や枝の曲がリ方はして居ません。
人間の姿も、正面から現在の形や心の、作られた美しさが観られ、横からは動的な美しさが、そして背後から眺める姿には、その人の過ごしてきた人生の陰影と、年輪の美しさが読み取れます。
●知足感
満開の花には虚栄の誇示があり、しぼんで散り落ちる凋落が、隣り合わせていますが、三分咲きの花には謙虚な羞恥がみられ、これから開こうとする、いぶきが感じられます。
満月には、次に来る闇夜の嘆きを知り、光り淡い新月に、次第に満ちて望月(陰暦十五夜の満月)となる期待・希望、の歓びを悟る、という感じ方から、万全でないもの、飽和しないもの、満ち足りないものに美しさを見出し、しみじみとした、心のおもむきを尊ぶ考え方が、日本人の心情として、美しさを表現する、大切な方法とされてきました。
表現を省略する手法は、伝統の日本画や、水墨画にも、書道の草書体にも、立花(いけばな)の枯木のあしらいにも、また造園法の植樹や立石の約束事にも、生かされています。
盆栽でも文人画から由来した、文人作りといって、極度に省略された、俳画のような表現方法もあります。
東洋美術の一分野である盆栽も、他の芸術と同じ、たしなみが必要です。
- ①根は太すぎず大きすぎず現れすぎず(八方に)
- ②立ち上がりは弱すぎず偏りすぎず(安定する)
- ③幹は細すぎず曲がりすぎず(力強く)
- ④枝は多すぎず偏りすぎず(下枝ほど太く)
- ⑤葉は大きすぎず繁りすぎず(下枝ほど多く)
- ⑥姿は整いすぎず乱れすぎず(不均整で均衡安定調和を保つ)
- ⑦勢いは弱りすぎず強すぎず(各根各枝均等に)
- ⑧趣はあらわれすぎず、いやみにに過ぎず(わび・さび・いきに)
- ⑨花は付きすぎず開きすぎず(つつましやかに、香りよく)
- ⑩実は塊り過ぎず多すぎず(控えめに)
- ⑪梢は接しすぎず重なりすぎず(間を保つ)
こららのことは草木を長く保つためにも大切なことで、葉が繁りすぎて内懐に陽や風が当たらないと中の小枝が枯れ、病虫がつきますし、多くの花が全部開ききるまで、咲かせてしまったり、実を何時までも、たくさん付けておくと、草木は、大変弱って終います。
花は五分咲きで惜しみながら蕾と一緒に取ってやり、実は少なくつけて、早く摘んでやることが、美しくもあり大切な事です。
過ぎたるは及ばざるが如し、と云いますが、満ち足りない美しさ、を愛する方が無難です。
私は大切な石楠花を、惜しがって花を早く摘まなかったばっかりに遂に枯らしてしまったこともあります。
足るを知り欲張らない心がけが大切です。
美しい盆栽は巨きく見えるものである。
ということから、巨きく見える盆栽には、どういう要素が必要であるかを考えてきました。
・・・・・・自然と盆栽8号
植栽(しょくさい)
なにも、針金を巻いて枝や幹をくねらせたり、バッサリと枝数を減らしたり、枝のないところに接木をしたりの大手術を敢行しようというのではありません。
植裁(しょくさい)「うえかた」自然盆栽の植え方をしますと、変な固定観念や先入観が邪魔をして気づかなかった、必然的で最も美しい、新しい姿の自然盆栽に格上げすることができます。
・・・・・自然盆栽協会「盆栽」より