自然盆栽語録
「らしさ」を如何にすれば一鉢の中に、美しく表現することが出来るか?
これが本誌の盆栽の一つ命題でもあり指名なのである。
醜い既成概念の盆栽は、本誌発刊の推薦文に、作家の司馬遼太郎氏が書かれている様に 「松の木をわざわざねじまげたりして、盆栽というものは低劣なものだ、という頭がわれわれ素人にはある。たとえば「盆栽的」という言葉には、”ひねこびたるもの””矮小なるもの””白々しく作りたるもの”という語感がつきまとうが(後略)」
という、いわゆる形式化形骸化して、必然性のない針金仕立ての、段作りやタコ作りと、切り口や折口の傷アトもなまなましく不自然な、ぶった斬りやすっ飛ばし作りのような、普通に見られる鉢物のことなのである。
・・・・・・・・「自然と盆栽」第23号より
一握りの知識と経験を得たり、いくつかのよい盆栽を買ったりすると、ついしたり顔になり、盆栽のことなら何でも知っているような、大きな錯覚に陥り、大言壮語するだけで、分相応に樹格を悪くしてしまい、流行と価格だけを追う亡者になる人が多い。
初心の頃の美しさへの驚愕(きょうがく)の心には清純そのものがあった筈である。
花の美しさ、葉のすがすがしさ、新芽の初々しさ、伸び繁るうれしさ、そして育ってゆく明日への希望が、はじめて盆栽をしった、初心の感激であった。
その初心の感激こそが、盆栽の本当の魅力であることを、改めて考えなおしてみたい。
・・・・・・・・「自然と盆栽」第22号より
一握りの知識と経験を得たり、いくつかのよい盆栽を買ったりすると、ついしたり顔になり、盆栽のことなら何でも知っているような、大きな錯覚に陥り、大言壮語するだけで、分相応に樹格を悪くしてしまい、流行と価格だけを追う亡者になる人が多い。
初心の頃の美しさへの驚愕(きょうがく)の心には清純そのものがあった筈である。
花の美しさ、葉のすがすがしさ、新芽の初々しさ、伸び繁るうれしさ、そして育ってゆく明日への希望が、はじめて盆栽をしった、初心の感激であった。
その初心の感激こそが、盆栽の本当の魅力であることを、改めて考えなおしてみたい。
・・・・・・・・「自然と盆栽」第22号より
草木に聴け
優れた盆栽を作る人は謙虚でもある。
自分自身をはじめとして、盆栽をやる人間と、その人柄の作っている盆栽を観察してみると面白い。
”文は人なり”と云うが”盆栽は人なり”とも言い換えられる。
いっときの遊びの碁や麻雀にさえ人柄がでるのだから、毎日の付き合いの盆栽には、そっくりと出る。
尊大で態度が大きく、よそで仕入れた知識と、理屈ばかりを並べてすべてを知ったかぶりする人は、どこの社会にも多いものだが、決して、仕事にも人生にも、最後の勝利や成功は得られていない。
謙虚に心を正して、人の声も、天地の微動さえも感じ取ろうとする静かな人にだけ美しい盆栽は作れるようである。盆栽の教師は、天地(あまつち)の風土と、草木それ自身である。幼稚な学問知識だけでなく、肌に触れて草木と共にあることが大切で、草木が問わず語りに教えてくれる。
一木一草といえども同一のものは存在しないし、条件や個性は全部違うからこそ、盆栽は面白いのだと思う。人や書物は参考にしかなりえないし、”技は盗んで体得するもので”あるから自然、盆栽、人、の観察が重要になる。
「自然と盆栽」18号より