自然盆栽語録


天候が主導権を握っているので人為には限界がある。
盆栽作りは人間が自然環境を少しでもよくすることであって、あまり人工的に環境作りを行っては、伸びるだけで、美しい盆栽は出来ないことだけは確かである。
植物にも、生活の知恵がある。自分で生きようとして自衛しているのに、人間がそれを破ることが多い。人間が寒いからと言って、暖房のある室内に入れたりすることが一番悪い。
盆栽は戸外に置くものである。
外において北風をよけ、根が凍らぬように冬は地中に鉢を埋め、雪や霜をさえぎるため軒下等に置くのはよいことだが、火気のある室内に入れては2・3日で弱ってしまう。
外にあって冬の季節を耐えることが、盆栽にとって健康になる条件の一つである。
過保護は人間のエゴで盆栽には迷惑だ。

・・・・・・・・「自然と盆栽」第21号より

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いつでも、いつまでも「飽かずに眺められる」のが自然芸術盆栽である。
それは決して人工に依って成るものではなく、「天工を人が助長する」事に依ってしかでき得ず、自然盆栽は根の先から葉の先に至るまでが、美しき自然の摂理に合致した必然の姿形で、枝や幹が屈折する接点には、必ず対応する枝幹かジンか其の痕跡を残し、或いは風雪などの外的条件が加わった必然の姿形が残っているものである。
それなのに現代流行の黒松作りは、傷だらけの針金仕立てで、毒キノコか、笠をかぶせた生首か、若杉を踏み潰したような、商業的な「太幹段作り三角松」ばかりで、この奇形樹が好きなのは、不自然な高い商業盆栽を見すぎた欲深い人々で、松を見ているより金嵩を見ているのではないだろうかと思える。
展覧会でも美しい下草や、自然な盆栽に集まる眼は、すがすがしい人々や大衆であり、「無理直幹短葉黒松」や「八房五葉」に集まる眼は混濁した眼、であるから面白い。

・・・・・・・・「自然と盆栽」第64号より

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「天はみずから助くる者を助く」
というサミエル・スマイルズの「自助論」にある此の一句は、人にも盆栽にも共通する言葉である。
盆栽も、自分でよくなろう、とするところがあり、またそれにもまして、もって生まれた個性の豊かさや、品格がなくては、如何に人間が良い盆栽にしようと努力しても、所詮は空しい結果に終わるものである。
愛盆家と自称する人間は、ただそっと手を貸しているだけに過ぎない。

・・・・・・・・「自然と盆栽」第54号より

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草木に聴け

優れた盆栽を作る人は謙虚でもある。
自分自身をはじめとして、盆栽をやる人間と、その人柄の作っている盆栽を観察してみると面白い。
”文は人なり”と云うが”盆栽は人なり”とも言い換えられる。
いっときの遊びの碁や麻雀にさえ人柄がでるのだから、毎日の付き合いの盆栽には、そっくりと出る。
尊大で態度が大きく、よそで仕入れた知識と、理屈ばかりを並べてすべてを知ったかぶりする人は、どこの社会にも多いものだが、決して、仕事にも人生にも、最後の勝利や成功は得られていない。
謙虚に心を正して、人の声も、天地の微動さえも感じ取ろうとする静かな人にだけ美しい盆栽は作れるようである。盆栽の教師は、天地(あまつち)の風土と、草木それ自身である。幼稚な学問知識だけでなく、肌に触れて草木と共にあることが大切で、草木が問わず語りに教えてくれる。
一木一草といえども同一のものは存在しないし、条件や個性は全部違うからこそ、盆栽は面白いのだと思う。人や書物は参考にしかなりえないし、”技は盗んで体得するもので”あるから自然、盆栽、人、の観察が重要になる。

「自然と盆栽」18号より

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自然盆栽語録

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